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安井曾太郎先生について
「安井曾太郎」と言われて、今現代の日本人がどれだけ安井先生を知っているのだろうか。
もちろん、東京の近代美術館に行けば青いチャイナ服を着て椅子に腰掛ける女性の絵「金容」がコレクションとして常時掛けられている印象がある。(常時でなかったらごめんなさい)
1955年に67歳で亡くなられているので、亡くなられて60年以上経っている。
いくら美術館に絵がかかっていたとしても誰かの心に残っていなければ、忘れられてしまうのであろう。
安井先生は昭和を代表する洋画家であった。月並な表現になりかけているが、その時代は梅原・安井時代と評されるほど、実力・人気と共に時代の寵児であったそうだ。
安井曾太郎は明治21年、京都に生まれる。妹が京扇子の家に養女に入ったことがきっかけで、京扇子が彩られていく様を見るのが好きで良く出入りをしていたのだという。きっと真剣な眼差しで眺めていたに違いない。
京都という土地は、日本の伝統文化や美が町で生み出されたことで、美が日常に根付いた特別な場所に思う。その地に生まれた安井曾太郎が絵画を志すのはやはり必然であろう。
安井曾太郎は日本洋画の先駆けであった浅井忠が自宅に洋画家育成の為に作った聖護院洋画研究所に通う。
その頃から抜群のセンスと技術でデッサンは誰よりもうまかった。
19歳で渡仏し、籍を置いたアカデミージュリアンという画学校でも恐ろしくうまく、同学校のデッサンコンクールで賞を独占した。日本人でも西洋人でも、上手い人間はどこで描いても上手いのだ。
それはもちろん努力の賜物でもあるだろうし、そうなるための要因を人よりも多く兼ね備えていたことには間違いないが、実を写すという労を伴う行為に対して、誰よりも真摯で手を抜かったのではないかと思われる。自分の目で寸分逃さず情報を掴みとり、それを画面に描き出すという作業は基礎以前に、絵を描く上で最も必要な敬虔な行為ではないだろうか。
前置きが長くなったが、そうした安井曾太郎は自由な画風を求め、アカデミージュリアンを退学しパリで目にしたセザンヌの絵に傾倒していく。デッサンで培った写実性から逸脱するように、画風は大きなデフォルメが用いられた。
またこれは画家にしかわからないことであろうが、フランスと日本の風土の大きな違いが油絵という特異な性質を持った技法を大きく狂わせたようで、日本に帰ってからはフランスにいた時と同じように描くことができず随分と苦労を重ねた。
日本的油絵の表現を安井曾太郎は探求し確立した。
それがあの東近が所蔵している「金蓉」である。
安井曾太郎の絵は、梅原龍三郎のような色調の明るさや自由闊達な貴族的な華やかさはない。
堅実で、何か太く揺るがないものに裏打ちされた知性のような品がある。二人はとても対照的である。
また肖像画の依頼も多く受け作品を残しているが、やはりデフォルメが入るのでその作品にはユニークさを覚えるのだが、肖像画になった方の実際の写真を見ると、これがまた安井の絵の通りと思ってしまうから流石なのである。
それは、その人から受ける雰囲気であったり、感じさせる人間性など、目に見えない部分を安井が捉えているからなのだろう。
卓越したデッサン力を持つ安井曾太郎は、その域まで達しているのである。
現在はその役目を終え無くなってしまったが、日本洋画の新人の登竜門として存在した安井賞というのは、
安井曾太郎が無くなった時に行われた遺作展での収益で作られた安井曾太郎記念会の事業の一つであった。
鴨居玲や有本利夫など多くの画家の排出に寄与した。
安井の遺作展は12万人ほどが来場したという。現在でも美術展で10万人を超えると「あなたが10万人目の来場者です!」と記念品と共に美術館の偉い方と記念写真をニュースなどで見るが、それは大変な数字だと思う。
作品の魅力もさることながら、安井曾太郎という人間の魅力に惹かれる足を運んだ人が多かったことは言うまでもない。
時代の寵児だったとい言われれば、そうなのかもしれない。
しかし何が人を惹きつけたのか、それはその時代固有のものではなく、今を生きる我々にも必ず響くものがあるはずだ。
安井先生をあまり知らない方がいらしたら、ぜひ着目してみて欲しい。
肚にグッとくる良さが見えてくるはずだから。
2019.07.19(金) -
色
グレーの混ざった白や緑味を帯びた黄色。
汚い色だと思いますか?
綺麗な色だと思いますか?
ちなみに私は綺麗な色だと思います。
2019.06.26(水) -
紫陽花の季節
永善堂画廊のある外堀通りには紫陽花が植えられています。
長い距離で紫陽花の一群が楽しめますよ。
今日は梅雨の中休み。いいお天気でした。
2019.06.25(火)