作品紹介

松本竣介という人

松本竣介は知性と勇気の人であったと思う。

13歳にして聴力を失ったことが彼の人生を大きく作り上げていったであろうことは言うまでもない。しかし、絵画のみならず深い思考力を持った知性溢れる文章を多く残した。

資金難で断念してしまったが、自らのアトリエを『綜合工房』と名付け、雑誌・『雑記帳』を創刊した。画家や文学者らそれぞれが、自由に思い思いの意見を述べる場として、執筆・編集作業に勤しんでいた。

曇りのない目で世の中を見つめ、心のうちから湧き上がるものを、文章や絵画として表現することは、竣介にとっては会話をする以上の、まさに生きるという行為に直結していた。そしてそれは勇気のなせる行動であったに違いない。

1941年29歳の時に、みずゑ1月号に掲載された座談会記事「国防国家と美術」に対し「生きてゐる画家」という反論文を投稿した。冒頭には、「沈黙の賢さ」という言葉が出てくる。しかし「今、沈黙することは賢い、けれど今たゞ沈黙することが凡てに於て正しい、のではないと信じる」と書き始めに述べている。日常の静寂の世界で深まっていた思索が、誰にもとめることのできないほとばしる情熱となって、竣介の行動の全てとなった。その年の12月に日本は太平洋戦争に突入する。 松本竣介の36年の生涯は、日本が大きく動かされた戦争という重く暗い時勢と重なっている。

竣介の描いた油絵に関しては200点ほどしか存在しないという。

作品としての素描や、本画に至るまでのデッサンや下描き等も存在するが、それですら限られたものであることに違いない。

1940年頃から竣介は多く自画像を描いている。自画像にこだわった理由はわからない。1942年松本竣介の最たる代表作「立てる像」は灰色の物悲しい風景に立つ自身を描いたものである。その人は竣介であるが、自身の姿形を借りただけで表現すべきは別のところにあったように思う。自画像を求めた背景には、竣介の思索が張り巡らされている。

しかしながら、端正な顔立ちにまっすぐな瞳のその姿には強く惹かれるものがある。本作は1940年5月と記されている。この時期より古典技法を振り返り新しい作画に取り掛かっている。自身がやるべきことにおいて、新しく何か変わろうとしていた時期である。そんな中で描いた自画像は、やはり竣介の知性と清々しさを感じさせる。また本作の裏には、モンタージュ技法を思わせる風景と人物の走り描きも描かれている。

(た)

*アートフェア東京2018に出品します

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松本 竣介

『自画像』

26.3×26.8cm

紙・インク 1940年5月頃

 (裏面)